午前2時20分前。
人も、木も、花も、空でさえもすやすやと眠りについている時間に、いつも少女は起きて、動き出す。
小さな望遠鏡を肩に担いで、入り口から音が聞こえないのを確認する。
ガチッ、と音を立てて、いまや自分の部屋となっている女王の間にある、
不思議な色をした炎を持つローソクの位置を変え、隠し階段を作る。
これは前の旅のとき、仲間が教えてくれたものだった。
隠し階段が現れると、地下から冬のヒヤッとした風が吹いてきて、思わず少女は身を震わせた。
下までの長い道のりを、できるだけ音を響かせないように下りながら、
あの、ガルガントが来る乗降口を目指す。
少女は、乗降口にある時計を見て、時間を確かめた。まだ時間はある。
焦らずに、レバーのある場所へと行く。
―――――・・ガチャ・・・
そこにあるレバーを下に引く。腕にある時計をちらりと見る。
時間は今日もいつも通り。これならいつもと同じように、2時には着くだろう。
そう思って顔をあげ、ガルガントが来る道を見る。
目的地まで、ここからは見えないが、そこから来るガルガントの声が聞こえる。
ガルガン草の匂いを追ってきているのだろう。
それから程なくして、その姿が見える。
青い色をした、蜘蛛のような生き物。
初めて見たときは驚いたものの、今は慣れのせいなのか、可愛らしくも見え始めていた。
ガン、ガン、ガン、と音を立てて、蔓の上を移動し、ガルガントはお目当てのガルガン草がある場所にたどり着く。
ガルガン草を満足そうに食べるガルガントの背中に、ダガーは急いで乗った。
お忍びでトレノに行くには、ガルガントは一番の乗り物だった。
ぺろりとガルガン草を平らげたガルガントは、くるりと方向転換して、トレノへと進み始めた。
周りの風景は、どう見ても楽しめるものではない。
なら少しの間だけでも寝ておこうと、少女は目を閉じた。
望遠鏡は丁寧に下に置き、うつらうつらとまどろみに入る。
ぎぎぃ〜・・・・
しばらくして、ガルガントの声で少女は起きた。目的地に着いたことを知らせる声。
眠い頭を起こし、望遠鏡を担ぐ。
降りると同時に、お礼代わりにガルガントを撫でる。
ガルガントは小さく鳴いて、その場を去った。
少女は、手慣れたようにはしごを上り、行き止まりに見えた場所を軽く叩く。
すると間もなく、視界が開ける。
いつも通り、オレンジ色の光が迎えてくれる。
当たり前のようにそこにいたトットは下を見据え、少女を見て、ふっと微笑む。
「・・いらっしゃい。今日も来たのですね。」
「こんばんは、トット先生。」
トットがそう迎えの言葉を言うと、頭が下げられないので、少女は変わりににこりと笑った。
「・・ささ、どうぞお上がりください。甘い紅茶を入れますよ。」
「ありがとうございます。」
お礼を言って、少女は、まず大切に持っていた望遠鏡を先に上の足場に乗せる。
その次にぐっと体を引き上げて、自身もそこにあがった。
トットは紅茶を入れるため、少女を手伝いはしなかった。
しようとしても「大丈夫」と言って断られるのだ。
「今日の様子はどうですか？トット先生。」
「わたしも少し見ていたのですが・・良好ですよ。」
ぱんぱんとズボンの埃を叩いて、少女はそう言った。
すぐに声が返ってくる。トットは、こぽこぽと音を立てて、小さなポットから小さなカップに紅茶を入れた。
カップには、白い角砂糖が数個、もうすでに入っている。
それを見てから、少女は望遠鏡をまだ慣れない手つきでセットする。
小さな望遠鏡は、トットならものの数十秒でセットできるのだが、
それに慣れていない少女は、2分近くかけてやっとセットをした。
そして待ちきれないように望遠鏡を覗き込み、はるか遠くの二つの月を見る。
「・・・こんばんは、ジタン。・・・今日も、会いに来たよ。」
二つの月の一方――テラ――を見ながら、少女――ダガー――は一言、呟いた。
「さあ、紅茶が入りましたよ。」
トットが両手に紅茶を持ちながら、ダガーにそう声をかけた。
月を見ていたダガーは一度それから目を外し、お礼を言って紅茶を受け取った。
ふー、ふーと、湯気の出る紅茶を息で冷まし、こくりと飲んだ。口中に甘みが広がる。
紅茶の熱も心地よく、じんわりと体に染みて、地下で冷えた体を温めてくれた。
「月はよく見えましたか？」
「ええ、とっても。最近晴れてなかったから・・よかったわ。」
トットが聞くと、ダガーは紅茶を飲むのをやめ、微笑みながらそう返した。
「・・・昨日までは・・雲が、ジタン自身まで隠してしまっているように思えて・・。
少し、不安でした。」
さっきの発言から数秒後、、寂しい笑みを浮かべながら、そう付け足した。
トットは返す言葉もなく、黙る。下手な慰めなど言っても、通じないのを知っているからだ。
毎日、飽きもせずにダガーはここに来る。
トレノのトットのいる家が、一番良く月が見える場所。
そう知ってから、ダガーはトットに望遠鏡を1つ貸してもらい、
午前2時ぴったりに、ガルガントに乗ってここに来る。
慣れない手つきで望遠鏡をセットし、いつもじっと、ただあの月を見ているのだ。
その月には、すでに「テラ」という名前がついていたが、
少女はそれに重ねて、新しく、自分だけの名前をつけていた。
「テラの月を見ていると・・何だかすごく安心します。
『紅い月なんて、血の色みたいで不気味だ』という人もいますけど・・、
私にとって、あの月は・・まるでジタンのようだから。」
ダガーの言葉の真意を、トットはわかっている。
今日も蒼い月の後ろでひっそりと輝く紅い月。
望遠鏡がなくても、ここから少しは見える。
世界を救ってから、俗に「8英雄」と呼ばれるようになった8人は、ジタンを除き、全員がそれぞれの故郷に帰っていた。
もちろんダガーはアレクサンドリアに帰ってきたのだが、
歓迎もそこそこに、その次にあったのは膨大な数の問題だった。
中でも前女王が破壊してしまったブルメシア、リンドブルムに対する損害の補償が一番大きな問題で、
これは弱冠16歳で女王に即位して間もないダガーには精神的にも、肉体的にも辛い。
幸い補佐する部下が経験も豊富でしっかりとしているので、負担も軽減はされていただろうが。
ダガーは、責任感と使命感から、何一つ文句も言わずに仕事をこなしていた。
そう、ダガーが必死に書類を片付けていた日も、ここに来るきっかけになった日も、ひっそりと、あの赤い月は輝いていた。
・・・事は今から1年ほど前にまでさかのぼる。
ダガー達が「英雄」となってから、最初に訪れた1月15日。
現女王のダガーの生誕日であるこの日には、当然、ダガーの生誕祝いが国を挙げて行われていた。
午前中は住民達の熱い希望により、例年通りタンタラスの劇が行われ、午後は城で宴を開いていた。
そして今回は特別に、招待状無しでも城に入れるようになっていたので、
一目女王を見、彼女を祝おうと、大勢の人が城に押し寄せ、
外はちらちらと雪が降っているのに、中はごった返す人のせいで蒸し暑くさえ感じられた。
絶対に、ジタンは来てくれる。
ダガーはすがりつくような希望で、何とか持ちこたえていた。
会場内の1人1人を見ながら、彼らが皆自分が求めている人とは違うことを知り、落胆する。
それを何度も何度も、ダガーは繰り返していた。
ジタンが姿を消してから、いまだ音沙汰はない。
けれども、この日には、自分の誕生日の日には、
あどけない笑顔でひょっこりと来てくれるのではないかと、ダガーはそう思っていた。
劇に彼がいなかったこともわかっている。けれど、そうでもしないと、やっていけなかった。
旅が終わって一息つく暇もなく、日々の激務にダガーは追われていたのだ。
何百枚という書類を片付け、国をその足で歩いて、声を張り上げながらスピーチをして・・。
毎日毎日、慣れないことで体はくたくただった。
ベアトリクスやスタイナー達の存在が大きな助けとなってはいたが、
それでもダガーの疲労は心身ともに溜まっていく一方だったのだ。
責任感の強いダガーは、例えどんなに疲れていても仕事を中断するようなことをせず、
部下や民に心配をかけないために、いつも元気に振舞っていた。
それも疲労を増すだけであることは明白であるというのに。
弱音を吐きたくても吐けず、誰かにすがりつくことも出来ない。
ぎりぎりの状態のダガーをかろうじて支えているのは、ジタンへの想いだった。
今辛くても、きっとすぐに会える。
そんな風に考えると、ダガーは心が軽くなるのを不思議と感じていた。
物事が直接結びつかなくても、この仕事が終われば彼に会える、と思えば、何とか頑張ることができたのだ。
だからダガーは必死だった。
会場内で例え一目でも、ジタンに会うことができたなら。
一言でも、言葉を交わすことが出来たなら。
また自分は頑張れる、とダガーは思った。
しかし一向に、ジタンの姿はその視界に入らなかった。
「陛下。」
声が聞こえて、はっとダガーは振り返った。
しかし目線の先にいたのはベアトリクス。
ジタンが自分をそう呼ぶはずはないということはわかっていたが、ダガーはまたも落胆してしまった。
「そろそろ、壇上に上がっていただきたいのですが・・。」
ダガーの気持ちを、ベアトリクスはわかっているのだろう、その言葉は控えめだった。
もちろんダガーはまだジタンを探したかったが、それをこらえた。
「わかりました。すぐに上がります。」
スピーチが終わったら、今度こそ会えるだろう。
確信のない希望。だが、そう思わなければダガーは耐えられなかった。
ベアトリクスの後ろについて歩き、ドレスの裾をあげて、壇上に上がる。
ダガーが壇上に上がると、すぐに会場のざわめきがおさまった。
今か今かと、女王の発言を待っている。ダガーは緊張しながらも、言葉をつむぎだそうとした。
「・・今日は、私の誕生日を祝うため、こんなにもたくさんの方が集まってくれたことに感謝します。」
会場にいる人々は、一言も聞き漏らすまいと、耳を傾けていた。
ダガーは、軽く会場内を見回す。目立つ金色は、ない。
「皆さんもご存知の、あの忌まわしい出来事から1年近くが経とうとしています・・。
まだ完全とはいえませんが、それでもここまでアレクサンドリアが復興できたのは、
皆様の強い心があったからです。絶望から立ち上がる、その心があったからです。
私は、それに大きな感謝をしています。」
今度はさっきよりも細かく、辺りを見ていた。
リンドブルム、ブルメシアから来てくれたシド大公やブルメシア王、
久しぶりに再会した仲間達、そして愛すべき国民の人達。
・・・この人も違う、あの人も違う。
「皆様がいたからこそ、このアレクサンドリアは前に進んでいます。
本当に、感謝しても感謝しても足りなくて、
今日という日は、私のため、というよりも、むしろ国民の人達のために挙げたかったものです。」
もうほとんど見回したというのに、とんでもない、という顔をするその人も違う・・・・・！
「これからも私は、この国のため、皆様のために、精一杯、頑張って・・いこ・・と・・・。」
そこでダガーは、大粒の涙を目に溜めた。
会場内が少しざわめき始める。
―――――いない・・・・。
そう頭が認識した。認めたくなんかない。
でも、その事実が頭を巡った。
会場にいない。隅々まで見たのに、いないのだ。
「陛下！？」
驚いたようなベアトリクスの声と、いきなりのことに動揺した人達のざわめきが聞こえる。
いない。
どうして・・・。
「・・・っ・・・ぁ・・あぁーーーーっ！！」
1つ、しずくが頬を落ちると、ダガーはその場に崩れて、そのまま大声で泣き出してしまった。
悲痛な、悲鳴にも似た声が、会場にこだまする。
「陛下っ！」
ベアトリクスが側に駆け寄って来るのがダガーにはわかった。
会場内のざわめきが、どんどん大きくなるのもわかった。
しかし、涙は止まらなかった。
ジタンが、いない。
どこにも。
その事実がどうしようもなく、悲しくて。苦しくて。辛くて・・。
自分を支えていた、最後の頼みの綱が切れてしまった。
元々淡い希望だったのは確かだが、それを信じ続けてきたダガーにとって、それはあまりにも痛かった。
「ベアトリクス！これは・・。」
いつの間に来たのか、困惑したスタイナーの声が聞こえる。
そのままベアトリクスと一言、二言話していた。内容など、頭には入らない。
「陛下、こちらへ・・。」
ベアトリクスに連れられ、ダガーはされるがまま、会場を出て行った。
遠くで、スタイナーが会場を静めるために言葉を発するのが聞こえた。
そしてそれを最後に、ダガーの意識は沈んでいった。
ダガーは気を失った後、しばらくしてから目覚めたが、その後、酷い高熱を出してしまった。
「このままでは、陛下が・・・！」
そんなときに、トットはベアトリクスに呼ばれ、アレクサンドリアに来ていた。
「ふむ・・状況はよくわかりました・・。」
そこでトットは一息つく。苦渋が表情に満ちていた。
「ジタン殿がいないのが、相当ショックだったのでしょう・・。
疲労とストレスから来ているものですが、これは程度が酷い。
恐らく、ジタン殿への思いか何かで、ぎりぎりの状態を保っていたのでしょうな・・。」
意識も朦朧としているダガーを悲痛そうに見ながら、トットは苦しそうにいった。
ベアトリクスも、とても悔しそうな、辛そうな、そんな顔をしていた。
後悔の色がありありと見えている。
ダガーが辛そうにしていたのも、異常に責任感が強いのも、わかっていたはずなのに。
そう考えているのだろうか。ベアトリクスはため息をついた。
「これは治るのに相当な時間がかかるでしょうな・・。
ジタン殿が側にいれば、話は別なのですが・・・・。」
「何とかならないんですか！？」
「う〜む・・・。」
八つ当たりのようにベアトリクスは言う。トットは頭を抱え、いつもの思考の姿勢になり、少し考えた。
「意識が朦朧としているので、薬も簡単には・・。
ジタン殿さえいれば、ジタン殿さえ・・・。」
ジタンさえ側にいれば、少なくともダガーは心の支えを見つけられる。
しかし、彼がいない以上、それは出来ないし、
例え今薬を投与しても、心の支えのないダガーには効かないだろう。
「病は気から」という言葉通り、治る意思がなければ、容態は良くならない。
トットは何とか、ダガーを助け出したかった。
ダガーの心の支えになるのはジタンだ。それならば・・と彼に関することを次から次へと、
記憶力の衰え始めた頭で必死にトットは考える。
ダガーや他の仲間達から聞いたことを思い出し、必死に情報をかき集めて・・。
「・・・・・！」
トットは雷に打たれたような衝撃を受けた。
そうだ、これだ・・・・！
「ベアトリクス殿、夜になったら出来るだけ温かい格好をさせて、彼女を私のところに連れてきてください。」
「え・・？」
「頼みましたよ！」
「と、トット殿！？」
この方法があるではないか。
ベアトリクスは状況が飲み込めていないようだが、説明するより、夜実際に見たほうがいい。
トットは急いでトレノに帰ることにした。
そして。
「トット殿、これでいいのですか？」
夜もふけた頃、ベアトリクスはトットの言うとおり、ダガーを服に包むようにしてトレノまでダガーを連れてきた。
「はい。ありがとうございます。」
怪訝そうな顔ながらも、素直にダガーを連れてきてくれたベアトリクスに、トットはお礼を述べた。
トットはベアトリクスの手からダガーを受け取る。
意識は相変わらずはっきりしていない。
自分の体を支えることも出来ず、ダガーの体が地面に崩れそうになるのを支える。
ダガーの体は高熱のせいで、異常に熱かった。
アレクサンドリアからここまで来るのは、辛かっただろう。
しかし、ここが一番いいのだ。トットは、ダガーを連れて外に出る。
「トット殿、説明を・・。」
「さぁ、陛下。あれを見てくだされ。」
ベアトリクスはとりあえず無視して、トットはダガーにそう言った。
聞こえたのかはわからないが、顔を自分の手で動かして、ダガーの視線を夜空へと向ける。
しばらく、ダガーは動かなかった。目に映っているのは確かにそれだ。
後は彼女がそれを心に入れてくれれば・・トットは願うように思った。
これでダメなら、もう救いようがないかもしれない・・。
絶望がちらつくのを必死に追い払いながら、ベアトリクスが我慢できずに口を開こうとした、刹那。
「・・・・月・・。」
「陛下！？」
かすれた声でダガーがそういった。ベアトリクスが慌てて近づく。
良かった。トットは心の中で安堵した。朦朧としていたダガーの意識が、久しぶりに浮上していた。
月を見つめるダガーのその目には、だんだん涙がたまってきていた。
「テラの・・月・・・。」
ダガーの言うとおりだ。トットは、これを一刻も早くダガーに見せたかったのだ。
「ジタン・・・！」
そしてぼろぼろと、ダガーは涙をこぼした。
ベアトリクスが、ようやく納得したような顔をした。
トットは前に、ダガーや他の仲間から、ジタンはガイアの生まれではないということを聞いていた。（もちろん他言厳禁）
知っていてよかった。そのおかげでダガーを助けることが出来たのだ。
テラの月。それが今、唯一彼女に見せることが出来る「ジタン」の姿だった。
トットのおかげで、本当のジタンではないものの、心の支えを見つけたダガーは体力を回復し、
また無事に公務が出来るようになった。（その際スタイナーからは仕事の量を減らすように言われていた）
しかし風邪が治ってからも、ダガーは月を見ることをやめず、夜中の2時にひっそりとトットの家で月を見るのが日課になった。
そして、今に至る。
ふとトットが見ると、ダガーはいつの間にかまた月を見ていた。
トットが一度思考や瞑想に入ると長い間声も耳に入らない、ということをダガーは良く知っているので、
その瞑想を邪魔しないように、ダガーはトットに何も言わず（もしかしたら何か言ったかもしれないが）
月だけを観る天体観測を続けることにしたのだ。
愛おしそうに赤い月を見る姿からは、ジタンをもまた、こう見ていたのだろうと思える。
ぽつり、ぽつりと声が聞こえるのは、ジタンに話しているつもりなのだろう。
「2人」の会話を邪魔しないように、トットは出来るだけ余計な音を立てぬよう、
慎重に自分のカップを片付けることにした。
「それじゃあトット先生、今日もありがとうございました。」
「いやいや。気をつけて帰ってくだされ。」
時計の針が3時を過ぎた頃、ダガーは帰ることにした。
ぺこりと頭を下げて、もと来た道を今度は下る。
大切な望遠鏡がどこかにぶつからないよう、慎重に。
「おやすみなさい、トット先生。」
「はい、おやすみなさい。」
次に体を入れて、ダガーは狭い空洞から手を振った。トットが笑顔で返す。
そしてふたを閉める。ダガーは完全にふたが閉まってからはしごを降りて、また、ガルガントに乗る。
ガン、ガン、ガン、という行きと変わらぬガルガントの足音を聞きながら、ダガーは息を吐いた。
これでまた明日頑張れる。
月を観ることは、ダガーにとってもう今や欠かすことのできないこととなった。
直接応援してもらったわけでも、話を聞いてもらったわけでもないが、
それでも、あの赤い月を観て、話をすると、心がとても軽くなった。
また明日も頑張ろう、と自分に言って、ダガーは戻っていった。
次の日も、その次の日も、ダガーは公務に追われながらも、毎日月を見て、心を癒していた。
そして月日は流れ流れ、今日は1月14日―――。
ジタンがいなくなってから、ダガーは明日、2度目の誕生日を迎える。
いまだ、彼に関する情報はない。
城の窓から、ダガーは夜へと向かう城下を見下ろした。窓は朝からずっと降り続いている雪のせいで、ひんやりとしている。
城下からは、もう夜なのに、まだ祭りの準備におおわらわの大人達や、
その大人達の間を縫って、まだ無邪気に遊ぶ子供達が見える。
ダガーは、その景色にふっと微笑んだ。とても、柔らかな笑み。
彼らが幸せであるように、とダガーは小さな祈りをして、ふと、また城下を見下ろした。
すると、そっと寄り添い、語り合っているだろう恋人達の姿もちらちらと見られた。
「・・・。」
とても微笑ましい姿だった。けれど、ダガーはやっぱり寂しくなってしまう。
自分は、たくさんの人に愛されて、囲まれているのに。
小さい頃は、ベアトリクスやスタイナー達がいてくれれば、ちっとも寂しくなかった。
しかしもう今は、寂しいとき、側にいて欲しいのはその人達ではない。
ダガーは無意識に名を呼ぼうとしていることに気づき、それをやめた。
また情けない姿を見せるわけにはいかない。
ジタン無しでも、自分は強くならなければ。
そう考えて、ダガーは窓の外から目をはずした。
コツ、コツ、と廊下を歩き、自分の部屋へと入る。
もう書類などの整理も終わってしまい、ダガーは暇になってしまっていた。
・・ベアトリクスやスタイナーが去年のことを考えたのか、
それともそれだけ問題が片付きつつあるのか、去年よりも幾分、仕事は少なく思えた。
大きな窓に、雪が触れる。
さっきは注目していなかったが、屋根という屋根は皆雪をかぶっていた。
「・・・。」
先程の恋人達の姿が、妙に心に残っている。
去年も同じような気持ちだった。
ジタンへの想いだけを心の糧にして、あんな恋人達の姿に憧れて。
自分とジタンを重ねてみたりもした。
けれど結局、そんなの虚しくなるだけで。ちくちくと、痛みを覚えるばかりで。
ジタンは現れないまま、またこんな思いをしている。
「・・っ・・。」
じんわりと、目頭が熱くなった。
明日もまた、去年のあの日のようになってしまうのか？
涙のにじんできた目に見えたのは、変わらぬまま、ずっとこちらを見ていてくれる月。
「・・・ッ！」
気がつくと、ダガーは望遠鏡を乱暴に担いで、走り出していた。
ろくに上着も着ず、ただただ、トレノにいるトットの元へ、あの月の元へ向かおうと、走った。
地下の静寂と暗闇の中を走って、ガルガントにいつもより強引に乗って。
トレノについてからも、乱暴にはしごを上り、ふたを叩いて。
「陛下？」
突然のことに驚くトットにも構わず、いつもよりも早く、1分弱で望遠鏡を組み立て・・・、
「――――・・・・。」
赤い月を観て、やっとダガーは落ち着いた。
「陛下・・・？」
「すいません、何も言わずに押しかけて・・。」
トットが、優しくダガーに話しかけた。落ち着いたダガーは、ぺこりとトットに頭を下げた。
「いえ・・それはいいんですよ。とりあえず何か着なされ。冬でその格好だと、風邪を引きますぞ。」
それに対しトットは首を振って、そっとダガーに毛糸の上着を差し出した。
戸惑いながらも、お礼を言って、ダガーはそれを着る。
その後トットは何も言わずに、紅茶を淹れ始めた。
何も聞いてこないのが、嬉しかった。
「・・・ジタン。」
ダガーは望遠鏡をのぞいて、赤い月に話しかけた。
2時に観るときよりも、さらに赤い月はぼんやりとしていて、存在が薄れているように見える。
「ジタンの存在は・・消えないよ。」
ダガーは首を振った。
「世界の誰もがジタンを忘れても、私は絶対にジタンを忘れない。
例え今が辛くても・・・・ッ、」
また目頭が熱くなってきた。ぽろり、と耐え切れず涙が一粒、落ちる。
「だから・・・ジタンはそこで見守ってて。
私が・・もっと強く、アレクサンドリアを守れるように・・、
ジタンがいなくても、立って、ちゃんと歩ける強さを持てるように・・。
去年は、耐え切れなくて・・泣いちゃった・・から・・・。」
淹れ終えた紅茶を持ってこようとしたトットは、そこで足を止めていた。
「私はずっと待ってるよ。強くなって、ずっとジタンを待ってる。
ジタンがいざ私に会って、私のこと、心配しないように・・。強く、なるから・・・。」
思いに比例して、強く強く拳を握って。赤い月を見据えて、誓う。
涙は、やっぱり落ちてしまったけれど。大丈夫、去年のようにはならないよ。
悲しみを越えて、強くなろうとするダガーの背中を、
トットは優しく見守りながら、そっと紅茶を差し出した。
「陛下、そろそろ出番ですよ。」
そして迎える次の朝。
「はい、わかりました。」
ベアトリクスがダガーを迎えに来た。ダガーはそれに、はきはきと答える。
鏡の中の自分は、大丈夫、凛としている。
それを確かめて、ダガーはドアを開け、一礼したベアトリクスの後にそのままついていった。
外は快晴。今は見えないけれど、きっと赤い月は、自分を見守っていてくれているだろう。
――――涙を勇気に変えられるように。
ジタンが来ない、と絶望の涙を流すのではなく、
1人でも立っていられるような、勇気を得られるように。
（・・ジタン、見守っていてね。）
窓の外を見ながら、ダガーは微笑んだ。
それは、決意をしたはずのダガーがまた泣いてしまう、ほんの数時間前の出来事だった。
| 目次へ |
|
後書きへ |
 |
|
 |