合縁奇縁の軌跡




女は疲れ切っていた。
焦点の合わない瞳は、景色の輪郭をほとんどとらえられない。
歩く姿は降り頻る夜の雨にさえ流されそうなほどにふらついていて、誰が見ても危うい。
抱えるようにした槍だけが、彼女を支えていた。

「…本当に…この世にいらっしゃらないと言うのか…」
最後に聞いた噂、今まで必死に耳を塞いできた言葉を見つめる。
歩みを進めるたびに崩れ落ちそうになる膝。
「……探せど捜せど見つからぬのなら、いっそ天からでも…」
天を仰ぎ見て地に落としたときの、なんと頼りないことか。
足が震えているのはそう見えるだけなのか、それとも本当に震えているのか。
それでも、彼女にはどちらでもいいことだ。
彼女にとっての重大事項は、自分の愛した人が生きているのか、いないのか、それだけだった。
会いたかった。
その一心だけで彼女は生きていた。
でも、探すことにも疲れてしまった。会うことさえできるなら、それが天でももう構わない。
ふらりと、道の端に寄る。
あまり恐怖を覚える高さではない。それでも、普通なら飛び降りようとは思わないだろう。
ここから飛び降りれば死ねるだろうか。
竜騎士として鍛えた身体には我ながら自信がある。
もし落ちても身体が勝手に受け身を取るかもしれない。高さが足りないかもしれない。
思いの外身体が頑丈なり何かにひっかかったりで、助かってしまうかもしれない。
そんな後ろ向きな不安を抱えながらも、他の手段を用いる力も、他の場所を探す力も残ってなかった。
ぺちゃりと情けない水音を立てて縁に立つ。脳裏にはあの人のことだけが浮かぶ。
自らの誇りの体現である槍と、竜騎士の証の帽子だけは、強く胸に抱え直した。

今会いに行きます、フラットレイ様。

そして身体が傾く。頭から足へかかっていた引力の向きが変わる。
自然の力だけに任せる落下も、悪くない。
「ちょ、ちょっとぉお!」
最期に聞いた声は、誰かの慌てた声。それが出会いだった。



 合縁奇縁の軌跡



落ちた時の衝撃とはこんなものなのだろうか。
飛び降りであの世へ逝った人間は、頭から胴体から目も当てられないほどの悲惨な姿になると聞いていたのだが。
やはり高さが足りなかったか?それともこれが死というものなのか…
「いぃっってえ……」
落ちた地面からうめくような声が聞こえた。
良く考えたら雨の音も聞こえるし、地面というには柔らかすぎる。
「だ…大丈夫か?」
問いかけは幻聴でもあの世への誘いでもない。…どうやら死ねなかったようだ。
手か何かで固定されていたらしい頭を声の方に向けると、人間がいた。
少年だ。見たことない種族だが、異種族の多いガイアでは特に気にすべきことでもない。
女が生きていることを確認しほっとしたのか、少年が笑う。
人好きする笑顔だったが、今の彼女にはただ目的を邪魔されたいらいらが募っていた。
「…何故邪魔をした?」
払いのけるようにして起き上がる。
「え?だってあのままじゃマジで死んでただろ」
それに対し、何を言っているんだとでも言いたげにきょとんとする少年。
それがますます癪に障る。
「……もうすぐ会えただろうに」
睨まれている少年は腑に落ちないらしく疑問符を浮かべたものの、女の顔を見て少しだけ顔を緩める。
「それよりおねーさん、美人だね。あんなことするより、オレと店にでも行かない?」
「触るでない!」
自身も起き上がりつつ、へらっと笑って手を掴もうとするのにはさすがに頭に血が上った。
とっさに一緒に落ちた槍を喉元に当てると、さすがに驚いたようだ。
「うわっ、さすがにそれは冗談だったのに…」
「…撤回するぐらいなら軽口を叩くな、小童め…」
私は死にたかったのに。
身を呈して女を受け止めてくれたのだろうが、余計な御世話だ。
しかも、ちょっと顔を見ただけでナンパをするような軽い男に邪魔されるなんて。
そんな男でも、ここで怯えて後ずさりでもしてくれれば、少しは気も晴れたかもしれない。
しかし、怯えるどころか真剣な目で見つめられてしまった。
「…そんな軽い男すら、刺すなら刺すで出来ないの?そんな震えてたら、いつまで経っても刺せないよ」
言われて初めて、槍を持っている手が震えていることに気付いた。
ずっと雨に濡れて冷えていたからだろうか、それとも…
考えている間に、少年は自ら穂先を握って首に持って行こうとする。さすがに反射的に槍を引いてしまった。
そして、自分が人間を刺す寸前だったことに気がついた。
何の罪も抵抗もない人間の喉を貫こうなどと、何を考えているのか。
軽い男にちょっと触れられ、軽口を叩かれた?それだけで免罪符になどなるものか。
竜騎士の誇りを汚すような人間が天に逝ったところで、あの人が迎えてくれるはずもない。
「う……」
自分を支えていた最後の糸が切れてくずおれた女を、少年は当然のように受け止めてくれた。
「…な、おねーさん。何があったか知らないけど、とりあえず何かあったかいものでも飲もうよ。
 こんな雨の中じゃ風邪引くから、な?」
そんな雨の中だと言うのに、雨上がりの空のように優しい笑顔をしていた。


全く力が入らなくなってしまった女をおぶって、少年は自分がとっていたと言う宿に入る。
夜中にずぶぬれの人間がタオルも持たず二人入ってきたことに宿の主人は嫌な顔をしたが、
どうやら少年が二人分の食事を追加したことで受け入れたようだ。
「オレも荷物少ないからさー、それで我慢してね、おねーさん」
受け入れられはしてもずぶぬれのまま部屋には行けないので、とりあえず着替えることにする。
少年が宿に置いていたわずかな荷物から何とか自分が着れる服を着させられたらしい。
…らしい、と言うのは女にその記憶がほとんどないからだ。
茫然としていて、自分の体を拭くどころか、一人で立つことさえままなっていなかったという。
宿の奥方まで出てきて着替えをさせてくれたのは、今となっては恥ずかしい限りで。
何でこれで槍や帽子はしっかり持ってられたんだよ、というのが少年の言い草だった。
「名前を聞かせてよ、おねーさん」
ようやく個室に入り、布団をぐるぐるに巻かれながら聞かれる。少し苦しい。
「…フライヤ・クレセント…」
だけど、こうして物理的に苦しいなどと思ったことも久しぶりの気がした。
「おーけーフライヤね。覚えた覚えた。見たところ竜騎士だよな。かっこいー。
 あとこれ。飲める?」
本当に感心した顔をしながら、少年がココアを差し出してくれる。
ゆらりと湯気がのぼり、甘い香りが鼻腔を心地よくくすぐる。
手を差し出すと、熱いからと覆ってくれたのであろうハンカチの内側から、じんわりと熱が伝わった。
「…あたたかいものだのう」
「うん、そうだな」
「…お主は平気なのか」
熱のおかげで少しだけ正気が戻って、ふと目の前の少年の様子が気になってくる。
ただでさえ落下したフライヤを受け止めたダメージがある。
彼も濡れていたはずなのに、替えの服以外はフライヤに貸しているし布団もない。大丈夫なのだろうか。
「人の心配してる場合じゃないだろ。オレはぜんっぜんへーきだから、ちゃんと飲んでくれよ、それも」
そしたら怒られてしまった。怒られついでにココアに一口口を付けてみる。
熱さと甘さに体が歓喜しているようだった。
そう言えば、ここ最近何かを食べたり飲んだりした記憶がおぼろげだ。
今まで生きて来れた以上、義務としての食事はしていたのかもしれないが、体はここまで喜んでいなかっただろう。
それだけ、フライヤの精神はぎりぎりだったのだ。
「それで?そのフライヤさんはどうしてあんなことしたんだい?」
一息つけた頃に、少年は夜食の肉をフォークで突きながら問いかけてくる。
数刻前の自分を思い出す。体が冷え切りもうろうとした思考の中で、彼の幻を追った自分を。
「…見つからないのじゃ」
「見つからない?」
ふっ、と瞳の色が変わったように思えた。
「恋人じゃ。あの方を追って、故郷を飛び出し探したはいいが…どこにも…」
一気にあの人のことが思い浮かぶ。カップごと手が震えるのを、少年はギュッと押さえてくれた。
「思い当たるところはすべて探した…山を越え谷を越え…だが見つからなかった…」
フライヤの旅路。それは一縷の希望にすがり、それに見放され続けたものだった。
どんな情報でも欲しかったが、道行く人間は勝手だ。捨てられただけなのではと言う無責任な人間すらいた。
「あの方を知っている人間はおらなんだ。そして最後に聞いた噂は…どこかで…はて…」
あの人なら、その強さで大陸に名が広まり、噂を聞くこともあるのではと思った。
だが、噂はだんだんと悲観的になって行くばかり。
思えば、最後の噂を聞いた時から、フライヤはおかしくなっていたのかもしれない。
思いだす絶望感に、体の震えが止まらない。
「なるほどね…」
決して男女のそれではなく、子供をあやすように優しく体を撫でてくれる。
少年の言葉には同情などひとかけらもなく、ただ納得があるのみ。逆にフライヤはそれに救われた気がした。
「な、その恋した男の人ってどんな人なんだ?」
いっそぱあっと明るい表情で、無邪気に少年は聞いてきた。
「向上心の強いお方だ。そして、国への忠義に溢れる方。
 故郷を出たのも強き者を求め、己を磨き、国を守る力にしたいとのことだった」
「へぇ、立派な人だなぁ」
「ああ、もちろんじゃ」
自分を褒められるより、あの人を褒められる方が嬉しかった。
あの人を好きでいられることは誇りだった。
「やっぱりおねーさんと同じ竜騎士?」
「そうじゃ、私はあの方に憧れて竜騎士になったのじゃ。
 竜騎士としても、人としてもとても尊敬出来るところの多い人じゃった」
「そうか」
少年が微笑む。フライヤも少しだけ絶望感が抜けて、ココアを飲むことが出来た。
「おねーさん、本当に好きなんだな、その人のこと。
 話してると、すごく幸せそうだよ」
「そう…じゃな。あの方と過ごした日々は、本当に幸せしかなかった」
それなのに、どこへ行ってしまったのだろう。

「フライヤ」

あの方の声とはまるで違う。でも、名前をこんなに優しく呼んでもらったのはいつぶりだろう。
「オレの胸、貸そうか?」
顔をあげるといたずら好きそうな笑顔。いきなり何を言うんだと思った。
「旅、辛かったんだろ?好きな人を信じてたから、泣くことも出来なかったんだろ?」
少年の手が頭を撫でる。手のひらとは、こんなに温かいものだったろうか。
「だから泣いちゃいなよ。あんなことする前にさ。
 どうせ会うなら、綺麗な姿で会いたいだろう?
 今なら雨で聞こえないから、そういうのは今のうちに全部流しちゃおうよ」
少年の言葉が雨のようにしみ込んで、ぼろりと目からこぼれた。
そうだ。私は泣きたかった。
あの人はもう私の元には帰ってこないんだと、どこかで思っていた。
でも、泣いたりしたらあの人はいないんだと認めるようで泣けなかった。だから辛かった。
そうだ、どうせ会えるのなら、綺麗な姿であの人に会いたい。
無惨な姿でなんかなくて、あの人が褒めてくれるような姿で会いたい。
少年が決してあの人を死んだと決め付けた訳ではないのが、また嬉しかった。
あんなに軽い男だと蔑んだのに、今はどうしてこんなに心をさらけ出せるんだろう。
「よしよし」
涙が止まらなくなった。
胸を借りることはなかったが、差し出された手を握ってひたすら泣いてしまった。
少年の言う通り、全てを雨に流すまで。


そして気付くと、日が昇っていた。
「………」
今の状況が掴めない。
大泣きしたことは覚えているが、そのときはまだ布団を巻いて座っているだけだったはずだ。
いつの間に、ベッドの上で寝ているのだろう?
いっそ今までのことが嘘のように思えるほど爽やかな朝だったが、床には確かに他の誰かが使った布団がある。
「おはよーさん」
状況整理だけでいっぱいになっていると、昨日の少年が入ってくる。
これは現実だと認識すると同時に、少年の手の上にある皿に目が行ってしまう。
「腹減ったんでしょ。時間もちょうどいいからどうぞ」
その視線を感じたか、くくっと少年が笑った。
「……その、昨日はすまなかったな、いろいろと」
朝食の間に昨日のことを思い出し、フライヤはいまさら恥ずかしくなった。
確かに今は昨日までと比べ物にならないほどすっきりとしているが、どれくらい醜態をさらし続けていただろう。
「旅は道連れ世は情け、だよ。むしろ寝れてよかったじゃん。
 昨日はクマもひどかったから、今日は落ち着いてて良かった」
フライヤの分のご飯はオレが食べちゃったけどね、とウィンクする。何気にちゃっかりとはしているらしい。
「…私はいつの間に寝ていたのだ?」
「詳しくはオレも覚えてないけど、泣いたのが落ち着いたと思ったらぱったり行っちゃって。寝息聞くまですげー焦ったよ」
眠気など今まで起きなかったが、体はやはり疲れていたらしい。
自分がどんな生活を送っていたのかが、よくわかった気がした。
「それよりフライヤ、これからどうすんの?」
これから、とは自分の旅のことだろう。
「…まったく持って頭に浮かばんな」
下手にごまかすと突っ込まれそうなので、正直に言う。
そこで、目の前の少年はどうなのだろう、と思う。
「そう言えば、お主は何をしておるのじゃ?」
見た目だけで判断できないとは言っても、さすがにまだ自立するには早すぎる歳だろう。
だが、昨日からの様子を見ても、彼の保護者のような人間は見ないし、現れる気配もない。
「似たようなもんだよ。オレも親の元飛び出して、探し物をしてるんだ」
「…一人旅なのか?何を探して?」
「うん、一人。誰かを連れて行こうとも思わなかったな。
 探してるのは故郷だよ。あと…まぁ本当の親かな。オレ、捨て子なんだよ」
「…」
アレクサンドリアとブルメシアの大戦のときは戦災孤児が数多く出た。
今はそれも落ち着いているが、生活の苦しい民は少なくなく、それに類する問題はまだまだ多い。
子供を捨てる親がまだいるのか、とフライヤは人のことながら胸が痛んだ。
「何か手掛かりはあるのか?それなりのところは旅していたから、何かあれば…」
「青い光」
「ん?」
急に力になりたくなって問いかけるも、返ってくるのはあまりにも離れた言葉。
フライヤが首を傾げると、少年はちょっとだけ困ったように笑う。
「青い光。育ての親のとこの海や空とは全然違う、本当に綺麗な光。
 でも、それだけなんだ。オレの故郷の記憶。聞く方がこんなでごめんな」
あまりに本人があっけらかんとしているものだから、フライヤは何も言えなかった。
青い光?そんな漠然としたものだけで、この少年は一人で旅をしているというのか。
「それでね、フライヤ。物は相談なんだけど」
頭の回線が混乱するが、そこで何を思ったか、少年がにやりと笑う。
「オレと一緒に旅をしてくれない?腕の立つ人が欲しかったんだよね。
 オレ、出来るなら世界中を回りたいんだ。世界がどんなのかっていうのも興味あるし、
 もしかしたらそのどこかにオレの故郷があるかもしれないし。
 でも今のオレじゃ弱すぎる。逃げるのにも限界があるからね、竜騎士がいれば安全だ」
そう来たか。
旅で絶望を感じて身を投げることまでした人間に、また旅をさせようというのか。
「出来るなら危険なとこにだって行きたいな。安全なところに故郷があるって保証もないし。
 いやまぁ、昨日の話を聞いたらフライヤの命をくれなんて言えないけど、とりあえずはオレに預けてくれない?
 巻き込みはしちゃうけど、絶対フライヤを守るって誓う。…それに、捨てるつもりの命だったんだろ?」
そこまで言うか。それに矛盾する言葉だ。
自分ひとりじゃ弱いからついてきて欲しいのに、それでいて自分が守るだなんて。
…でも、それに傷つくどころか、だんだんとおかしくなって、笑いが出ている自分がいた。
「やっぱり、美人は笑う方が綺麗だね」
恋人にさえ言われたことのない歯の浮くような言葉。けれど、自分の願いを受け入れてもらえるかどうか見る瞳は真剣だ。
幼いくせに何を、と一蹴することだってできる。でも、今の彼女はそれを思わない。
彼は、命の恩人だ。
「わかった。お主と一緒に行こう。ただし、危険なところまで行きたいというからには強くなってもらうぞ」
「なるなる!頑張るから!ありがと、よろしくな!」
食事の途中なのに手を握って振るのはどうなんだろう。行儀が悪い、と思ったが、それをとがめる気にもならない。
何だか長い旅になりそうだ。でも、きっとこの少年となら楽しいだろう。
しかし、そこでフライヤはあることに気づく。
「…ん?どーかしたか?」
手を振るのをやめて、訝しげな少年。
「…いや、そう言えばお主の名前を聞いておらんな、と」
「あれ?言ってなかったっけ?」
はて?と疑問符まで頭に浮かびそうな顔で言う。
その表情がとてもあどけなくて、思わずフライヤの頬は緩む。
「名を聞かせてくれ」
おーけー、と少年が笑う。フライヤはその名前を、その人を、一生忘れることはないだろう。


「オレはジタン。ジタン・トライバル。盗賊兼役者、だよ」


こうして、ジタンとフライヤの二人旅は始まったのだった。







 〜つづく〜


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * ミニあとがき * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
たぶんこれ入れて3話とか…多くても5話程度で終わると思います。
ジタンとフライヤの旅路はずっと書きたかったものです。
二人の出会いは雨、フライヤは自殺未遂という衝撃的な出会いになってしまいましたが(笑)
アルティマニアにある「命の大切さを知っている」というフライヤの項目での文がとても気になっていて、
どういうことなのかということを今回で私なりに示した形です。
なんとなく今回はフライヤ中心になりましたが、次はジタンで行きたいと思います。
完結までお付き合いいただければ幸いです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。

11/6/30


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